川崎市がヘイトスピーチを規制する条例案を作り、議会で審議中だ。勧告や命令に従わなければ、3度目で罰則を科す。画期的な条例といえる。中身を自分なりに考えおきたい。

まず規制をかける意味はあるか。多国籍化する川崎市にあっては、こういう厳しいルールが必要ということなのだろう。罰則を実際に科すことはなくても、行政にこれだけの武器があれば、一定の歯止めにはなりうる。 だが、ここまでしないといけないのだろうか。住民の対立をうまく和らげる試みがもっとないかと思うが、それは安全地帯からの理想論なのか。居住者の対立が鋭くなる前になにか打つ手がなかったのか、とは思う。

続いて、効果はあるか。公共スペースでの街宣はなくなるのかもしれない。ただ、ここまでの策を講じざるを得ないのだとすれば、やはり対立そのものをなくすとまではいかないのだろう。表向き静かになっても、互いの悪感情は取り除けないのではないか。 こんな厳しい条例案をつくらなくてはならなくなった、その真因にもっと目を向けないといけない。そこに思いをいたす市民が増えれば、条例論議は意味がでてくるのかもしれない。対立を前提に取り締まりを強化するということに終わるのならば、むしろ差別意識を助長しないか。

川崎市も取りうる手段はなかったのだろう。対立する人たちにいくら話し合えといっても効果は出まい。他の市民への迷惑を少しでも取り除く。その姿勢は評価できるが、根本的な解決にはならないのではといらぬ心配をしてしまう。 条例でヘイトに毅然とした態度を見せたといっても、あまりほかの自治体の参考にならないんじゃないかとも思う。平和な暮らし、多文化の共存。言うは易し。それはわかっているのだが、そこでのもう一踏ん張りがみたいというのは、あまりに安易なお願いなのだろうか。
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